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ムジナと多様性
2016年04月10日
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同じ穴のムジナという言葉を最近言われることがあったので、同じ穴のムジナと多様性について考えてみた。

私はアメリカでだけ少し生活の経験があるが、なんだかんだとパーティーに誘われることが多く、あの人誰だっけと聞いても誰も知らない人が混じっていることも少なくない。反対に日本ではオープンな友達を連れて気軽にどうぞというパーティーが少なく、だいたい素性がしれている人同士が集まる。

自分なりに考えてみたところ、その場所に居合わせるということの重さが違うのではないかという結論に至っている。つまり一緒にパーティーにいて話していましたよねということが、偶然すれ違っただけと考える国と、同席して話していたぐらいだから何か結びつきがあるんじゃないかと考える国の違いにあるのではないか。会うことや同席することの意味が重いから、それを警戒して、誰と会うかわからないパーティーが少なくなり、結果として会はクローズドになる。

パーティーでたまたま会ったというレベルではなく、仲良い友達の場合も似たようなことが起こる。例えば、政治的や社会的な考え(原発反対とか、改憲派とか)を公表している人と仲がいいと、あの人もおそらく似たような考えを持っているのだろうと思われる。何度か、あの人と仲がいいってことはあなたもそうなんですかと質問されたことがある。同じように僕と友達の人は、あなたもあんなにややこしいんですかと言われているだろう。

この社会において同席するということは、仲がいいということは、意見が同じであるとみなされがちだと思う。私も日本人なのでその感覚はあるし、そういうもんだと分かった上で日々を過ごしていればそれなりに適応できるのだけれど、ここ最近の多様性の議論が混じってくるとそう簡単な話ではなくなる。

つまり同席したかどうか、一緒にいたかどうか、さらには仲がいいかどうかで、その人の政治的な立ち位置、考え方が同じであるとする文化では、多様性は存在しえない。外からどう見られるかを気にして、慎重に会う人を選び、誰と仲良くするかも選ぶようになるからだ。反対にあの場所にいるからって、この問題で同じ考えとは限らないわよねと認識されるなら、人はもっと気軽にコミュニティーをとびまわれる。

考えが違う人同士が同じ場所にいるのが多様性であって、考えが違う人同士が一緒にいないのであればいくら社会の中に多様な人がいても、そこにははっきりと分断された境界ができることになる。同じ穴にむじなも、きつねも、たぬきも、ライオンだっているから多様性なわけで、種類ごとに穴をわけてしまったら多様な社会とは言えないのではないか。

仲がいいことと意見が同じであることは(多少は関係あったとしても)関係がない。そういう考えを持った人がある一定数いる社会においてのみ、多様性が保たれるのだと思う。

 

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