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なぜスポーツか
2014年12月31日

私たちのずいぶん前の先祖が有機物になりたての頃、ただ波に揺らいでいたそれが少しずつ自ら動くようになっていった。最初はほんの小さな揺らぎから少しずつ動きが生まれていった。光を見たらそちらに向かったり、危険を察知したら逃げたりと、周囲の環境に対しての反応だけで動きが促されていたという。自発的な動きと呼ぶものはずっとずっと後になって誕生する。

動きには心は必要なかった。心とは何かという哲学的な定義はさておいて、怒りや恐れといったような情動が生まれたのも動きが生まれてからずっとずっと後だった。環境に対する動きが生まれ、そのうちに複雑になった生き物が自ら(何を持って自発的とするかはまた別の機会に)動くようになり、やがて情動が生まれ、そして心が生まれ意思が生まれてきた。

ベンジャミンリベットの実験。右手を動かそうと思ったタイミングと、実際に右手が動いたタイミング、更には脳が右手を動かそうとした瞬間に出る準備電位の三つを計測した。結果は意外なものだった。脳の準備電位→意志→右手の動きの順番に確認された。つまり右手を動かそうと思うより前に右手が動くためのなんらかの準備がなされていたということらしい。

自発的であるという事もずいぶん疑わしい。割り箸を口にくわえて面白いドラマを見ると面白さが増すという実験がある。楽しいから笑うだけではなく、笑うと楽しくなる。また人間がどうやったら笑顔になるのかというとつられ笑いの影響は大きいそうだ。周りが笑っているとつられて笑顔になり、そのうちに楽しくなる。一体それは自分発の楽しさと言えるのだろうか。

人工知能が発達し全ては脳への刺激だけで体感したという認識を持てるようになるという。けれども脳だけを取り出して考えることはできるのだろうか。ラジオ体操を最初からやってくださいと言うとただ思い出すのは難しくても、体で動いてみると思い出せるということがある。実際に体を縄で縛ると思い出せる確率が減る。記憶は脳にあるはずなのに体との連動で呼び起こされる。私たちの歴史を振り返れば脳の前に動きがあった。

全ては自動化され、アマゾンではまだ自分でも気づいてすらいないお気に入りの本が送られてくる。生まれる前の子供のDNAを検査して生まれた途端に理想的な栄養に沿った食事が人生を終えるまで、理想的なキャリアパス、また教育プログラムが用意されている。

人間らしさは一体最後何に宿るのか、それとも人間らしさすら問わなくなるのか。私は人間らしさは身体と感情に宿ると思っている。まず身体と動きがあり、その後脳が誕生する。身体からの情報をやりとりしない脳はない。末端の情報を統合するのが脳で、脳ではなく、身体と脳との関係性に人間らしさが宿ると私は考えている。

スポーツには身体があり、そしてなぜかわからない感動がある。人間はいずれサイボーグに勝てなくなるだろう。遺伝子ドーピングも盛んになると思う。でも、その時に人類は納得できるだろうか。納得できない所に感動はない。納得とはただの勘違いかもしれないが、実感であり、これでいいんだという自信と腹落ちだと思う。

これから何十年も月日が経ち、最後に残る問いは”人間らしさとは何か”だと私は予想していて、その時それに応えるのはスポーツではないかと、引退してからずっとこつこつとチップを貼り続けている。

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