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私のパフォーマンス理論 vol.52 -最終話-
2019年12月29日

2012年に引退して来年で8年になる。五輪はもうロンドンから数えて2大会目を迎える。2000年から2008年の8年間が私が代表として試合に出場していた期間だから、同じだけの時間が引退してもうすぎてしまったと思うと、時間の早さに驚かされる。

引退後に経験したことは私の考え方に大きく影響を与えた。引退して社会の中で仕事をした事。家族ができ子供を育てているという事。これらによって、幼少期の人間の育成とそれが人生に及ぼすであろう影響、競技時代の経験が社会に出てどう役に立ち、どう弊害があるかを実体験で知った。また、機会に恵まれ様々な世界の一流の方たちと交流することができ、現役時代にはなかった新たな知見を得ることもできた。特に認知科学や、社会心理の領域で教えてもらったことは新たな視点を与えてくれた。

一方で、現役を終えて変わってしまうものもある。例えば現役の頃は陸上の試合を見るだけで心拍数が上がり高揚したが(実際に測定したら400Hを見ている時は100近くまで脈拍が上がっていた)、今はほとんど何も感じなくなってしまった。また、もう昔のように勝利するためならなんでも犠牲にできるとは思えなくなった。家族もいるし、社員もいる。もう少し継続可能な幸せを重要視するようになった。経験を現役時代の空気を纏いながらまとめられるのは今の年齢ぐらいが限界だろう。この先はもっと客観的になり、コーチの世界に入ってしまう。

ちょうど2年ほど前の2017年に2020年の東京五輪を迎えるにあたり、何か選手に貢献できないだろうかと考えるようになった。人生で一度しかない五輪を悔いなく迎えてほしい、そのために自分にできることはないか。強化に入るのは間に合わないというか役にも立たないし、選手を育てるにはコーチとしての経験が足りなさすぎる。1、2年ぐらい考えて、自分の一番の特徴は言語化だから、自分の競技人生を言語化するといいのではないかと思い立った。言葉であれば読みたい人が読みたいタイミングで読むことができる。無駄に選手の邪魔をすることもない。私の人生は自分でコーチングをしたからか失敗が多く、実体験を持って語れる。それを言葉でシェアしてみようと一年間毎週一記事ずつまとめていった。途中かなり大変な時期はあったが、選手時代のように何かに向けて頑張っている気持ちになれて楽しさもあった。本当はもっと失敗談が多くするはずだったが、私の性格が影響して押し付けがましく書いてしまっていることが悔やまれる。

一年間、体験をまとめてみて改めて感じるのは、自分を知ることと、何を争っているかを知ることの重要さだ。ある意味で私の競技人生は自分を知りその扱い方を学ぶ過程だったと言える。私は私の分析では、やや多動で好奇心が強く、自分で実際にやりたがり、内向的で自問したがる傾向がある人間だった。このような性質を持つ人間はどうすればうまく扱えるのか。悩みながら自分なりにやってきた25年の競技人生だった。特に人間の特徴が、場によって長所とも短所ともされる経験は人生観に大きく影響している。直すのではなく活かすことが私の教育観の根底にある。

また、引退して感じるのは要するに競技力が向上するということは、それぞれのスポーツにどの程度最適化するかということだ。陸上に最適化することは、水泳の非最適化でもあるし、チームへの最適化は個人競技への非最適化でもある。特に長く競技をやっていると、技術のうまさや、作戦の巧みさに目がいくようになり、だんだんと物事を複雑にする傾向にある。だが実際には真実はいつもシンプルだ。スタート音が鳴った後、胴体をゴールまで早く運ぶ競争が、短距離・ハードルの勝負の要諦だ。他は枝葉に過ぎない。自分は何を競っているのかから目を離さないことも重要だったと思っている。

おそらくは私が生き残った理由はこの二つをそれなりのレベルでやれたことが影響しているのかなと思う。もちろんもっとうまくやれたこともあっただろうが、あの当時の自分では精一杯やったのだろうと思う。

チャールズダーウィンは獲得形質は遺伝子しないと言った。獲得形質が遺伝しないなら、なぜこれほどに100mの記録が伸び続けているのかがずっと疑問だった。性淘汰や、科学の進歩、ドーピング、疾走技術の向上など影響を与えたものは多くあるだろうが、これほど記録が伸び続けていることを説明するには足りないのではないか。二点、人類は他人の失敗から学べること、もう一つはいったん記録が破られればそれが当たり前になりもはや限界ではなくなることが影響していると私は考えている。特に身体ではなく心の領域の失敗は、あまり語られているものが少ないために選手時代には出会いが少ない印象がある。だから、意識して実体験を描いた。

私が初めて新聞に書いたコラムは毎日新聞でタイトルがハードラー進化論だった。この年になって改めていいタイトルだなと思っている。一選手であった私の経験が誰かの役に立てれば本望だ。

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