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10秒の壁
2017年09月10日

ロジャーバニスターが現れるまで、人類が1mile(1600m)で4分を切ることができるとは誰も想像していなかった。そのロジャーバニスターがトレーニングを重ね、ついに1mileで人類初の4分切りを果たした後、たった一年の間に23人の選手が4分を切ることになった。身体能力に支配されている陸上競技ですら、人類が共有したマインドセットに支配されているということでこのストーリーはよく知られている。

20年前、バンコクのアジア大会の準決勝で伊東浩司さんが10″00で走ってから、いつ、誰が破るのかと20年間言われ続けてきた10秒の壁がついに昨日、桐生選手の手によって破られた。今この瞬間の日本記録は9″98だ。

まるで野茂選手がメジャーリーグで初めて三振を取った時のように、昨日を境に日本人のマインドセットは変わるだろう。10秒はもはや壁でなくなり、今から陸上を始める選手達は日本記録を見るたびに9″98というタイム(もしかしたらさらに速いタイム)を意識することになる。自然と目標は9秒台に置かれ、全てはそこからの逆算になる。まるで、スマートフォンで検索をするのが当たり前になったように、もはや次の世代の当たり前は9秒台になった。

現役選手にとってももう10秒は特別な意味を持たなくなった。アスリートであれば、何か世の中にインパクトを与えたいというのは共通の思いだが、それはもう10秒を切るだけでは達成されなくなった。もっと次の世界に進まざるを得なくなったのだ。記録を狙うにしても、今この瞬間のターゲットは9″98になっている。

もう一方で、この記録は世界大会や日本選手権で出ているのと違い、全日本インカレで出ている。全日本とはいえ、最も重要な大会ではない。桐生選手はこれまで何度も10秒を切る機会に恵まれつつ記録を出すことがなかった。陸上は風の影響が大きい競技で、風を計算に入れると実質桐生選手が今季、最も速かったのは4月の織田陸上だ。だから数年前から桐生選手の9秒台は運に左右されていたと言える。

だが、たとえ偶然起きた出来事でも、そこに意味づけをし、物語が自分の中で形成されてしまうことがある。本番以外(世界大会、日本選手権)で記録を出せたということは、違う観点では本番では出せていないということになる。つまり、狙いすぎると(記録が)出ないんじゃないかという自己暗示が形成されかねないということだ。

私のようにこねくり回す人間は自己暗示にはまりやすいが、桐生選手がそうであるかどうかはわからない。いずれにしても、次のターゲットは来年の日本選手権で名実ともにトップの座を獲ることだろう。

今現在の日本記録は9″98である。全てのスプリンターの前提条件が、そしてトップスプリンターの目標は10秒の向こう側となった。そこから逆算され今日からまさに彼らのトレーニングが開始される。そう遠くない将来、選手達は9秒台になだれ込んでいくだろう。もはや私たちの頭の中にあった壁は取り払われたのだ。

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