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一度だけ山極先生に...
言語と認知
2015年10月25日
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一度だけ山極先生にはあった事があって、後ろからデカイ背中を見て失礼ながらシルバーバックのようだと思った。
記事を読みながらその事を思い出した。

英語は必要か論争というのがよくあるけれど、英語が不得意な(実は以前はまあまあできると思っていたのだけれど、カンファレンスなどに出席んするようになって単純な日常会話しかできない事に気がついた)私からするとそんなもの必要ないと突っぱねたいが、事実絶対英語はできた方がいい。一方で世界を見渡すと英語以外の言語もたくさんあり、スペイン語ができたらなあと思うときもたくさんある。勉強しないと

ところで、それとは違う文脈で今ピダパンという本を読んでいる。

言語学はあまり詳しくないのだけれど、とても興味深い本だ。ピダパンが使う言語には右や左の概念、数の概念がない。またチョムスキーが言っている言語性特説に当てはまらないものだという事で、どうも言語学の世界ではえらい事をこの本は書いているらしい。

本の内容と少しずれるが私が面白いと思う点は、考えた事を言語で表現するだけではなく、言語によって見えている世界が定義され思考も定義されるという考え方だ。考えてみれば色に関して詳細に語れる言語を持っている人たちは、実際に色の違いが見分けられるからこそその言語があるわけだし、むしろその言語を持つからこそ色が違って見える。

誰からか忘れたが、日本語でも花が綺麗だと言われる文章だったのが、花を私が綺麗だと思っているという文章が生まれるのはしばらく後だったと聞いた。私という概念が生まれてそれが表現されたのか、そういう言葉が出てきて私が認識されたのか。どっちなのかはよくわからない。

物心着いた時に私たちは何らかの言語を使っていて、それで何かを伝えるのが当たり前だと思っているけれども、そもそもその言語によって自分の思考や認知が制限されているという事は当然感じない。それ以外を知らないと制限がかかっていたという事も気づかない。私たちはある種のバイアスの中に生まれて、バイアスがかかっているとも気付かずに大方の場合は生きていく。

話はぐるっと戻り、日本語が母語である私は日本語にしかない範囲で物事を認知し考えてしまっている。一方でそれこそが私を世界でユニークな(70分の1程度に)存在にしてくれている。英語が母語である人と、日本語が母語である人は、すごく極端にいえば違う世界を生きる。He とSheの表現がある世界では、性別を意識しない事がとても難しいと聞いた。エスキモーには雪を表す言葉が52ほどあると言われている。おそらくその言語を使わない人には、52もの雪の違いは認知できないと思う。

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