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あるがままを受け入れることと、現状肯定の違い
2015年08月01日
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よくあるがままを受け入れるしかないという話をすると、それじゃあ現状の問題は何も解決されないし社会はよくなっていかないじゃないか、という意見をもらう。この辺りは微妙で、実際に仏教でどう解釈されているか、社会でどう解釈されているかわからないけれど、私にとっての認識を書いておきたいと思う。

まずあるがままを受け入れることは、あるがままを受け入れているわけで、現状を肯定しているわけでも否定しているわけでもない。石がそこにあるなという世界と、なんであの石は角ばっているんだという世界。サバンナでシマウマがライオンに食べられましたという世界と、ライオンに食べられたシマウマがかわいそうじゃないかという世界。あるがままの世界には善も悪もない。善も悪も私が決めている。

一方現状肯定の方は、現状は如何ともしがたいから自分の認識を肯定的に変えることで不条理を受け入れましょうという考えだと私は認識している。つまり、現状を変えるのは困難である→だから捉え方を変えることで対応するしかない→現状に対してどうこう思い、どうこうしようとするのをやめて肯定的に捉えればそれなりの幸せが訪れる。これが現状肯定だと捉えている。確かに現実の不条理に屈服する、または蓋をする形なので、こういう人ばかりでは世の中は何も良くならないし、実は腹の底に不満が溜まるばかりというのはよくわかる。

あるがままを受け入れるというのは、そもそも見る人がいなければ悪も善も、この世界すら存在しないという立場にたつことだと思う。私がいなければ私にとっての世界はない。一方現状肯定は否定すると辛いから肯定する方向に変えようという眼鏡の架け替えだと思う。眼鏡をかけていることに気づいたところから始めましょうという世界と、眼鏡の架け替えによって対応しましょうと違いではないか。

あるがままを受け入れるということは、まずそのままを一旦受け止めようということだと思う。その上で、ここが重要なのだけど”私”がすべきだと感じることをする。世の中のあるべき形に近づけるのではなく”私”のすべきだと思うことを成す。なんだ結局同じじゃないかと言われるかもしれないが、私はこの二つは違うと思っている。世の中はひたすらにそのままなのだけど、すいませんちょっとだけ自分の価値観を反映させてくださいねという世界観。

世の中は不条理で不公平で、生まれてすぐ死ぬ子もいれば、庭から石油が出ている人も、善いとされる行いをしながら病気になる人も、悪いとされる行いをしながら健康に生きる人もいる。ああそりゃそうだよな、さてその上で自分は何をしようか。あるがままを受け入れた後の行動には恨みつらみがなくひたすらに淡々とした世界が広がっているのではないかと、私は想像する。

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