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偏り
2015年07月22日
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メディアは事実をあるがままに報道すべきだという意見に接することが多く、私なりの感想を書きたいと思う。確かにメディア、ことさら日本におけるテレビの影響力はとても強い。だから中立であるように努めなければならないという方向は理解しているけれども、実際に中立であるということは完全には達成不可能だと思う。

木を見る西洋人、森を見る東洋人という本がある。その中で、中央に大きな魚がいて周辺に小さな魚が泳いでいる水槽を眺めた東洋人と西洋人の話が出てくる。水槽を見終わった後感想を聞くと、西洋人は大きな魚の詳細について言及し、東洋人は周辺の小さな魚または水槽の中にあった海藻の話をする人が多かった。

意識的にそうであったわけではなく、無意識に何に意識が置かれるということが決定していて、そしてその情報を認識した自分が思いを馳せる。あの大きな魚はどうして赤いのか。どうして8匹も水槽の中にいるのか。考える為に必要な一次情報を、誰も介さずに自分の目で確かめたとしても、それすらすでにバイアスがかかっている。

メディアは空間的に、情報量的に制限がかかっている。それは人間の認知できる量にも限りがあり、物理的な制限もあったから、例えば新聞の一面や、テレビであれば24時間という枠の中に情報を盛り込もうとする。そうすればどの情報を載せるかどれを載せないかという選択が必要になる。選ぶ作業があるという時点で偏りを排除することはできない。そしてそもそも何を取材に行くかの時点で偏りが存在している。

偏りがなく情報が入ってくる自閉症児のドキュメンタリーを見たことがある。すべての情報が等価値なので、入ってくる情報量に耐えられなくてよく耳を塞ぎ込んでその場にうずくまってしまっていた。私たちが何気なしに日々を生きるのは偏りを持って自分にとって重要だと思われる情報を自動的に拾い、そうでないものを拾っていないからだろうと思う。

私たちは偏りを持って世の中を見ている。だからこそ私たちはいる価値がある。何しろ同じものが文字通り違うものに見えている人たちがいるわけだから、お互いがユニークで、自分が見えていないものを見ている可能性があるからだ。偏りこそ個性だと私は考える。

 

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