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考えてもわからないという前提に立つということ
2016年03月07日

ちょうどここ数日、事前に考えればどの程度のことがわかるのかということに思いを馳せていた。私は考えてもわからないという考え方をするので、わかるという前提に立つことの弊害を見つけやすいのだけれど、それを少し書いてみたい。

思うに、普通の学習プロセスは、考えればわかるという前提に立っていると思う。考えたけれどわからなかった、または間違えたとなれば、考え方になんらかの問題があったから答えに至らなかったということになると思う。そうすると答えを見て、考え方を習い、その考え方で問題を解こうと努力する。考える時に全ての情報が開示されている時にはこの考え方は極めて有効に思う。

けれどもこの学習方法は、考えて実行してみると知らなかったことがどんどん湧き出てくるような状況では効かなくなる。私の経験では、事前に調査し、情報を徹底的に集め、それで実行してみても、実行した途端、知らなかった情報が出てくることがよくある。そもそも時間がかかれば、それを行う主体である自分自身の感情やものの見方が変化するから、考え始めた当初と実行時が全く同じなんてことはありえない。

テストで言えば、問題を解いてくとテレビ番組のように貼ってあったシールが剥がれて、新しい情報が追加されるようなものだろうか。こういう経験を積み重ねてくると、そもそも最初に考えることが最後まで正しいなんて期待をしなくなる。むしろ後から出てくる新しい条件にうまく合わせる余白を残した状態でスタートさせる。

自分を見つけるという行為においても、考えればわかるという人は考えて自分を探したがるが、しかしながら、自分にも自分はわからないと思う。人は環境に適応する。人間は、置かれた環境や、普段接している人に驚くほど影響を受ける。これらから分離された自分などいないと私は考えていて(東洋的かもしれないが)、だからいくら自分を探しても、置かれた場所が変われば自分すら変わってしまうからあまり意味がないと思っている。捕まえたと思ったら、明日は別のところにいってしまっている。

イメージでいうと、ブラックボックス化した部分が自分の中にはあって、Aを入れたらZが出てくるけれど、なんでそうなっているのかはいくら解析しても分かり得ないという感じ。なぜそう考えたのだろうか、なぜあんなことをしたのだろうかと、いくら考えても全く意味もないことがあるのだろうという風に私は考える。もしかしたら、一部ではなく全部はブラックボックスで、自分はひたすらな空っぽの器なのかもしれないが。

わからないのだという前提に立つことは、考えが未熟でわからないのではなく、どうあがいたって誰にもわからないのだという立場をとることだと思う。万物は変化し、前提は変わり続け、世の中は空である。どうせ考えてもわからないのだという立場に、諦めて立ったほうが、案外と世の中は楽になり面白くなると私は思う。

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